2019年01月27日 10:34  

門構え。②

前回の瓦土塀の投稿の続きです。
その際、遠景を載せておりませんでした。



門周りの話題は、こちらの門構えのお話しから入ったのですが、そういえば、右手に見えるこの門についてお話ししてなかったですよね。


この門は、実はこの家が創建された時にはないもので、昭和55年頃、復元の折に新しく作ったものです。その頃まだ伝統工法で家を建てられる大工さんがたくさんおられました。伝統的な建築物を建てるための人材も材料も今ほど希少ではなかったでしょう。腕の良い職人といい材料で作られたこの門は、40年近く経って、江戸創建の建物ともしっくりをあっています。

ちなみに、
昭和40年くらいの青焼きの図面を見たことがありますが、門の周辺には別に建屋があったと記憶しています。その図面に門が載っていたかどうか、今度探して調べてみますが、こうした門を江戸時代に商家が作ってよかったのでしょうか?
お詳しい方がいらしたら逆に教えていただきたいです。
明治に入ると、町人だ、武家だ、という区別がなくなって、建築様式に縛りもなくなったようですが。

・・・ざっと調べてみましたら、豪商の家には門のあるお宅もあるようですね。



何はともあれ、門は建物群の入り口として成立しているけれど、駐車場が不可欠ないまの時代、敷地全体の入り口が曖昧だとの庭師さんのご意見から、左手に瓦土塀を建てることになりました。もちろん、母屋の屋根葺き替えで古い瓦や土が大量に出た、ということは一番のスタート地点だったのですが。


建物というものは、時代とともに変化する生活習慣とともに、変化を余儀なくされるものです。
余儀なくと言っておりますが、後ろ向きに捉えているのではありません。
時代考証的な観点で見ますと、ここっておかしいね、という造りが各所にあります。
でも、時代時代に生活した人の工夫の積み重ねの結果だと私は思っています。

そんなことを感じていただけるようなお伝えをしていくのも、おもしろいことなのかもしれませんですね。
  


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2019年01月23日 19:45  

国登録有形文化財 特別公開企画 文化財の音景vol.4「親子について」④ 「こんな発想はいかがでしょう?」

毎年秋に文化財ならではの企画として、一般の方に無料で建物内をご覧いただける無料公開企画を催しています。

2018年版は、共に石原邸の所有者であった父が亡くなった後ということもあり、「親子について」というテーマといたしました。




こちらはその企画のメインとなる空間演出「血脈」に寄せて」。


真ん中の大きな枝の作品「血脈」は石原邸とも私達親子ともお付き合いの深かった花作家 森直子さんの作品。
北海道の森林で見つけた大きな枝を、持ち帰って汚れや腐った皮など丁寧にきれいに取り除いていくうち、まるで骨のようにも見え、また、親族家族の血脈を表しているようにも見えてきたのだそうです。制作当時は赤い実のついた蔓を巻きつけた形が完成の姿でしたが、今回、すべて取り払って展示することとなりました。
彼女も、父が亡くなる少し前にお父様を送られていて、それ以外にも大きな変化をいくつも経験されていました。そうして越えてきてみると、蔓の装飾も全く不要に感じたとのこと。

この作品を、石原邸の北西いちばん奥の仏間の中心に浮かんだように展示したいというアイデアがこの「親子について」の企画の始まりでした。

畳の間に、このような枝の作品・・

石原邸は、ほぼ全てが、木や植物でできています。
この部屋がこのように設えられたのは創建以来初めてだと思われますが、幅広い年齢層お客様方からとてもしっくりと感じられたとのお声をいただきました。

一見合わなさそうなもの同士も、こんなにしっくりとし、皆様の目にもそのように感じていただけて本当に良かったです。


この空間展示について是非また次回にも。  


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2019年01月20日 21:26  

瓦土塀の続き。③

前回投稿の続きです。


手前側の土塀が完成したところです。



練り上げられた土であるとか焼きしめられた瓦が材料であることで密度濃く感じるからか、重厚な存在感があります。
高さとしては150センチ弱のそんなに大きなものではないのですが、もっと大きく感じます。



こちらが前回投稿の、石組みの上に瓦を敷き始めた頃。




手前の土塀が建って、こんな感じになりました。




奥から見るとこんな感じです。


今は奥の土塀が立っていますので、もうこんなふうに見ることはできません。
建築途中の様子をもっと撮っておけばよかったです。


石原邸創建当時からあると誤解されてしまう恐れがありそうなほど、
新たに作ったものとは思えない、こなれた雰囲気ですね。



_______________
「石原邸会議室の価値」
http://ishiharatei.boo-log.com/e465699.html
  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月18日 12:00  

最も多くの方の目に触れているであろう、石原邸の姿。

長いタイトルになりましたが・・

こちらは石原邸を西北西側から見たところの姿です。



電柱、電柱の看板、ゴミステーション、舗装された道路、銅製の雨樋、石組みの上に建ててある柵、ぜんぶなくしてイメージしてみましょうか・・

さらに、
左面の縁石から道路白線のあたりに水路が通っているイメージをしてみましょう。


水が勢いよく流れる音がして来ました。
路から建物に入るために、水路に石の橋を掛けてみます。

石の橋を渡って、お客様や石原家の人々が出たり入ったりしています。
人々が路を行き交っています・・・



創建当時、燃料店、米穀店を営み、庄屋もしていた頃の石原邸はそんな様子だったと聞いています。


旧東海道から、あるいは、岡崎城の方角からおいでになって見えてくる石原邸の姿は、
今イメージしていただいたものと当たらずとも遠からずだと思います。

旧東海道からの石原邸へのアクセスは徒歩5分ほど。創建当時、そこそこ賑わいのある場所だったようですよ。この辺りは城下町というより、門前町だったと聞いています。
昔は近隣の二つ三つのお寺のお坊さま、安寿さまが法事ごとにお参りに来てくださっていました。


このアングルで撮られた古い写真が岡崎市史に載っていました。
こちらでお見せ出来るように探してみますね。




◆ ◆ ◆

石原邸会議室の価値
↓↓↓
http://ishiharatei.boo-log.com/e465699.html  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月16日 23:20  

瓦土塀の続き。②

前回投稿から続きまして・・


練り混ぜ、練り混ぜして粘性のついた土を、石組みの上に乗せ、そしてまた瓦、そして土、瓦、土、瓦・・・と、かさを少しづつ上げていきます。
もっと寄りの写真を撮らないでしまったので、わかりにくいかもしれませんが。



ちょっとミルフィールみたいですね。



庭師さんもひたすら反復作業です。

瓦土塀作りは、しっかり指揮の執れる親方がいれば、あとは素人でもお手伝いができるもののだそうので、やってみたい方やお子さん達を募るもの手かなと考えつつも実現しませんでしたが、庭師さん方の美意識、こだわりが存分に発揮されます!




作業をしているとご近所の方が声をかけてくださいます。


これからひたすら、瓦、土、瓦、土・・・を繰り返して完成を目指していくのです・・・



  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月15日 22:56  

瓦土塀の続き。

前々回の投稿に続きまして。

土台の上に、瓦と練り直した土を積み上げていくのですが・・



このブルーシートの中に、母屋の屋根から下ろした土が保存してあるのですが、
こちらに使用済み食用油を練り混ぜていきます。
前々回の投稿の写真にも写っておりましたこのブルーシートの小山。




こんな風に<フネ>と呼ばれる大きなトレイにような容れ物の中に土を油を入れ、足で踏んで練っていきます。体重を使っていかないと、仕事にならない!とてつもなく重いのです!
長靴に思いきり吸い付いてきます。

私もやろうとしましたが、一度踏みこむと足を上げるのに何十秒もかかる・・いや足を上げること自体できずにおっとっとと転びそうになる、もう全く邪魔をしているに等しかったです。
ほんの、ほんのちょっとだけ、体験させていただいたくらいのものでしたが、男性陣のお力の素晴らしさを思い知りました。



ひたすら練り混ぜます。



ひたすら・・練り、混ぜ。



練り、混ぜ・・・
  


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2019年01月14日 10:10  

瓦土塀、築地塀、信長塀。

最近投稿している当家、瓦土塀の話題から派生しまして・・



こちらは、熱田神宮にある「信長塀」。
歴史にお詳しい方には説明不要かと思いますが、織田信長が今川義元との戦の途中、熱田神宮で戦勝祈願をし、大軍を擁する今川軍に大勝した、その御礼として寄進したのがこの信長塀だそうですね。


愛知県生まれ、愛知県育ちの私なのですが、この信長塀のことを全く知りませんでした。
熱田神宮は愛知県で多分知らない人のいない、最も有名な神社かと思います。
初詣に行かれた方も多いかと。うちは子どもの頃から初詣に行く習慣がなく、行く機会があっても近くの神社でしたし、熱田神宮に詣でたのもこの時が初めて。
石原邸の瓦土塀を作りはじめて次の年のお正月だったと思います、熱田さんに初詣のおり、木立の奥に信長塀を発見しました。


遠くから見るととてもその場に溶け込み、自己主張をする風でも、神社側が推している風でもありません。
腹の据わった素晴らしい存在感。近寄ってみると、非常に丁寧なお仕事だという感じ。
築年は1560年頃だとか。
当時、ここに大量の資材と職人達が集められたのですよね。
一体どれくらい位の年月がかかったのでしょう。




瓦土塀と呼んでおりましたが、こうしたものは築地塀(ついじべい)と呼ばれているのですね。
調べてみると、瓦を入れない、土肌のみが外に出るタイプのものが築地塀の主流なのかしら・・と思いましたが、瓦を入れるのは強化のためであるとの記述も見られました。確かに、当家の瓦土塀を作る時、庭師さんが瓦が入ると強固になるとかいったお話を伺った気がします。うちの場合は、主屋の屋根の葺き替えの産物ですので、土も瓦も両方使いたかったというのが先にありますし、当時知ったなりの瓦土塀の姿がとても好きだったこともあるのですが。

450年余り経っていてもなお美しく、揺るぎない安定感。
作り方や素材の性質だけでなく、社会、地域、その土地を営む人々、管理する人々・・これに関わる全ての縁という縁が、この塀が存続するという方向に揃ってはじめて、このような素晴らしい姿を現代の私たちが見ることができると多い浮かばれ、気が遠くなりそうです。

こちら程ではないにしても、当家のリユース素材によるこじんまりとした土塀。
末長く残りつづける縁に恵まれるなら幸いと思います。  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月09日 20:47  

瓦土塀。自然石の土台。

前回投稿に書いた瓦塀のお話。

地面に長方形に切った浅い溝に自然石(それを割ったものでもあるかもしれません)を敷き詰めて土台を作っていきます。

石原家の敷地にあった自然石を使っています。
石原邸の庭の手入れをしてくださっている庭師さんの手による、美しい石組み。
これは2014年9月頃。




少し引いて見てみると。






様々な形の石を組みあげてゆき、必要な高さで一定にレベルを揃えていくのは、技術も根気も要ることと思います。同じ大きさ同じ形、面が一様にまっすぐなタイルやブロックを積み上げたものには出せない趣があります。そもそも、石材の肌そのものが味わい深い。掘り出されたままの状態なのか、大きな自然石を割ったものか、割れたものか・・色合いも一様ではないですし、「だいたい同じような色」だけど「違う」ものの集合体と「規格に沿った製品」の集合体は本当に別物です。

お城の石垣などもこのように組み上げていくのですよね?

先日、熊本城の再建の映像を見ました。とても痛々しいのですが、残された材から先人の仕事を現代の職人さんが見て学び、作り直す・・壊して新しくするのもそれはそれの素晴らしさがあります。でも、こうした過去と現在の人びとが力をあわせるようなお仕事にはこれはこれのかけがえない素晴らしさを感じていました。この瓦土塀も、500年...もしかしたらそれ以上の未来に、もしそのような縁があるなら、未来の職人さんが、同じように直してくれるのかもしれません。
なんとも、スケールが大きい!




路地挟んで常夜灯(昔の街灯のようなもの)が建っているのですが、そこから見るとこんな感じです。



この上に土、瓦、土、瓦・・・と積み上げていくのです。
土といっても、母屋の屋根から下ろした土に、食用油などをしっかりと混ぜて、再び粘土をリフレッシュさせた土です。

ちなみに・・・
ピントが合っていませんが、
左隅に少し写っているのが、常夜灯の石材の肌です。
この常夜灯はいつの頃のものかわからないのですが、明らかな風化具合が時の流れを感じさせます。
  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月08日 20:52  

門構えと瓦土塀。



ちょっとぼけ気味、古めの写真で失礼します。
2014年8月頃です。
もう4年以上前になるのですね・・・


門構えというには、範囲の広いお話ですが、前の投稿で門構えをすっきり整えるために、趣のある旧い倉庫とブロック塀の一部を壊したのですが、
冒頭の写真が壊したときの状態です。

とてもすっきりしました!





ここの一部に塀を作ることになりました。
というのも、あまりにもオープンすぎると言いますか。
それに、主屋の瓦の葺き替えをしたのですが、旧い瓦と土がかなりたくさん出ました。それを再利用して「瓦土塀」という塀を作ろうというお話になりました。




いきなり、瓦を詰んでいくのではなく、このように長方形に掘り下げたところに、まずは土台として石組みをしてゆきます。


石原邸の庭を手入れしていただいている庭師さんの手による、すべて石原邸にあった材料を使って作っていくプロジェクトでした。

また次回このお話し続けていきたいと思っています。






  


Posted by 大辻織絵 │コメント(0)

2019年01月05日 17:50  

門構え。



2016年夏から秋口にかけて、あいちトリエンナーレの会場としてお借りいただきました。
その時の門のあたりの風景です。


そして、こちらが、その前の年の夏に門の周りを整備する前の状態です。



もう全く違う雰囲気でした。
古いブロック塀が道路すぐきわまで伸びており、これまたものすごく年季の入った車庫がありまして、2015年の夏だったと思います、こちらを壊したのでした。




車の通り道としては、そんなに今も変わってはいませんが、建屋があると閉塞感があります。私はこの倉庫の趣、なかなかおもしろくて好きだったのですが、文化財にしていただいた家の門の前ですので、もうちょっとすっきりと、門構えの印象を整えるべきじゃないかということになりました。




そして、道路もきわまで伸びていたブロック塀が奥へ向かって路地沿いに続いています。
六供町は昔懐かしい路地がまだ残り、子供達が道で遊んでも危なくない、今では珍しくなった景観かと思います。


この地域も、石原邸も少しづつ変わっていきます。変わることは怖くもあるものですし、想い出はとても強い力のあるものですし、古いものは一度壊したらもう戻らない貴重なもの。しかし、残していくべきもの、雰囲気・・取捨選択を考える上で、見た目や想い出だけに傾きすぎてはいけないと。
後世の人びとにできるだけ、良いかたちで残してあげたいなあと思っています。



  


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